裕也大明神は、兄に対する屈折した心を持ちながら大きくなり、ロ

裕也大明神は、兄に対する屈折した心を持ちながら大きくなり、ロックの世界で爆発することによって自分を解放し、一方、安部直也は、ヤクザ社会へ走ることによって、兄の呪縛から逃れた:::、というふうに私は見ているのである。いずれも、女にはかなり分かりにくい心の動きだ。だが、彼らには、それぞれ必然性も言い分もあるに違いない。内田裕也の兄がどんな仕事をして、どんな地位にいるのかは知らないが、弟をして、ロックというマイナー音楽の世界で暴れざるを得ないようなプレッシャーを感ザしさせるとは、そうとうスクエアな人間だと思うが、どうだろうか。スクエアな兄に対抗するには反対へ走るしかない、と考え、そこで彼は「暴れ者」となり、自分を表現するようになっていったに違いない。飛び降りられる男・飛び降りられない男ところで裕也大明神が、庖丁を持って殴込みをかけたことについてだが、たった一人でああいうことをやるには、ひじように度胸がいる。そういう度胸は、かなり場数を踏まなければ出るものではない。見たところ、ひと皮剥むけば意外に気の小さいところがあるようにも思えるが、いったい、いつ、彼はそういう度胸を身につけたのだろうか。最初に大人同士の喧嘩をしたのは、いくつの時だったんだろうか。男の喧嘩というのは、女と違って口ではなく腕力を使うから、最初はさぞや怖かっただろう。今の彼は怖いものなしのように見えるが、最初の頃は、足が震えるほど怖かったに違いない。少年時代は、どんな男でも、けつこう取っ組み合いの喧嘩をするものである。ただし、これは小犬がジャレているのと同じで、怪我をしても、せいぜい赤チンでなおるような程度である。しかし柄が大きくなると、怪我も赤チンではすまない、ということが分かり、またそれ以上に大人気おとなげない、と思い始めるから、自然やめてしまう。ら〈いん大人になっても、まだ取っ組み合いをやっているようでは、「乱暴者」の熔印を押されて、敬遠される。そのうえ大人の喧嘩は、もしかしたら命にかかわることもあるかもしれない。相手が凶器でも持っていれば、なおさらその危険性は高くなる。そこで、大方の男は、あとをも見ずに一目散、ということになるのだが、女にしてみれば、なにか危険が追った時、いつも逃げてばかりいる男じゃ頼りなくて困る。すぐに喧嘩をふっかける、というのも論外だが、逃げてばかりでは、もっと話にならない。売られた喧嘩を、必要なら買う、という度胸のある男でないと、女は男として認めたくない。女は力で闘うことはできない。